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彼をはじめて見たのは’87のTTF1の日本グランプリだったと思う。 当時のTTF1はバージニオ・フェラーリとかデヴィッド・タルドッツゥイといったイタリア勢が幅を利かせてはいたものの日本勢も負けては居らず町井邦夫や宗和孝宏なんかも地の利を活かし上位を走っていたのを覚えている。 ※もしかしたら宗和孝宏は出てなかったかもしれない。 そんな中確か総合3位だったのがドゥーハンだったと記憶する。 マシンのセッティングが出てなかったのか実力なのかは分らないが走りは精彩を欠いていた。 ※このレースにはマイケル・ドーソンという選手 もエントリーしていた。 その後グランプリでも見かけるようにはなったもののトップ争いをする事は無くイメージはそんなに良くなかった。 というか当時はローソン、レイニー、シュワンツといった他のライダーとは格段にレベルの違う走りをする連中が常に上位を独占し時おりガードナー、コシンスキーが表彰台に顔をのぞかせるといった具合。 ※コシンスキーは一発の速さはあったが セッティング能力に問題があり不具合 を上手くエンジニアに伝えられない事 もあり、よくマシントラブル(か転倒) でリタイアしていた。 ところが気が付けば6強(ローソン、レイニー、シュワンツ、ドゥーハン、ガードナー、コシンスキー)の1人になっていた。 この6強の強さは、それ以下を周回遅れにする事は日常茶飯事(?)で厚い壁として他のライダーの前に立ちふさがった。 ※当時On timeで参戦していた伊藤真一は 時おり頑張ってレース中は彼らの中に 割って入りバトルを展開したもののマシン (特にタイヤ)と集中力が持続せず、よく 転倒リタイアした。 特に印象に残るのは’92の開幕戦(日本)と最終戦。 開幕戦でダントツの速さを見せつけ以後4連勝と波に乗りシーズン半ばで優勝を決定付けるほどのポイント差を2位以下に付けていたにもかかわらずアッセン(オランダ)の予選で転倒し以後4戦を欠場(これで開幕4連勝のアドバンテージは無くなった) ところがライバルのレイニー・シュワンツも怪我で思うようにポイントが稼げない。 ※シュワンツはいつもの事だけど。 そんな訳で最終戦までもつれこんだけど3人とも本来ならばレースどころの話ではない怪我人でマシンに乗れるのが不思議なくらいだった。 ※それでも他のライダーたちは手も足も出なかった。 翌 ’93は怪我が完治せず(というか医者のミスで手術が大失敗)右足にギブスを付けたままレースに出る事もあったりした。当然タイトルどころの騒ぎではなかった。 しかし翌 ’94はライバルのレイニーは前年のミサノ(イタリア)のクラッシュで引退を余儀なくされシュワンツも手の怪我の回復が思わしくなくガードナー・ローソンは既に引退しコシンスキーはカジバに移籍し彼の敵ではなくなっていた。 結果初タイトルを手にする事に。 しかし彼の心中は晴れ晴れとはしなかったようだ。 本当なら完璧なレイニー・シュワンツを打ち負かしてのチャンピオンとなりたかったのだろう。 気が付けばライバルは皆居なくなり彼の天下。 以後5連覇の破竹の快進撃。 レースは常に終始トップを走る横綱レース。 もはや彼の前に立ちはだかる敵は居なかった。 少なくともファンたちの目にはそう映った。 いや、そんな生易しいものではなかった。 その証拠に時おり彼の前を走り優勝を掠め取る岡田にライバル心を露わに『このションベン小僧が!』と歯を剥いて怒る場面が良くあった。 ※同じロスマンズチームにもかかわらず。 そして気が付けば黒かった彼の髪の毛は見事なロマンスグレー(30半ばで) 「彼の心の中には、嘗ての6強時代のライバルたちの名誉のためにも負けるわけにはいけないという気持ちがあったのだろう」というジャーナリストが居た。 私もその通りだと思う。 レイニーがクラッシュした次のレースのスタート前に『Wayne wish you were here』という看板を手に持ちマシンに跨っていた。 「もし彼(レイニー)が完治するならタイトルなんていらない」 レース後彼は言った。 愛すべきオージーだ。 |
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ドゥーハン選手はそんなに抜群の速さだったんですね。少しは名前を耳にしたことはありましたが、それほどだとは知りませんでした。8耐でも有名ですよね。 |
ハカセ 2009/12/30 14:27 |
ハカセさんへ |
薩摩おいどん 2009/12/30 18:44 |
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